社長の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ひとりごと




2019年 2020年 2021年 2022年 2023年 2024年
 
> 2020年 11月1日  ウサギとカメの数学
高校の数学の時間に、ウサギとカメの競争の話が出てきて、半世紀以上、疑問に思ってきた。ウサギにハンディを付け、カメを100mだけ先に行かせる。ウサギはカメに追いつけるか?

ある時間に100mの1/2(何分の1でも良いのだけれど)だけ差が縮まる。そしてまた1/2、またその1/2、…と数学の先生は言った。(1/2)のn乗で、nが無限大になるから差が0、つまり追いつくと。本にもそう書いてある。これはギリシャ時代からの有名な話らしい(ゼノンのパラドックス)。ウサギではなくてアキレスが走る。
自分は納得が行かなかった。無限に繰り返してもゼロになるわけがない(道路が続く限り)。だいたい、「まず、ウサギとカメの差の1/2まで行くと…」という話が不自然だ、「1/2」まで行けるんだったら、「1」まで行ける。つまり追いつけるという前提で、「果たして追いつけるか?」と問うているのだから、奇妙だ。
数学的解答の、「(1/2)のn乗で、nが無限大」のとき「ゼロ」というのも、「現実では追いつけるのだから、無限大でゼロと考えた方がつじつまが合う」というだけのことだろう。
結局、腑に落ちないまま、大学でも遊んでばかりいて解決できず、今に至る。

しかし、つい最近、偶然、「ループ量子重力理論」という新しい分野を知った。それによると、空間も時間も断続的、つまり点でできている???。その2点間の最小距離(プランクスケール)は、空間の場合、10のマイナス33乗センチメートル。
これだったら、ウサギは、カメの「10のマイナス33乗センチメートル」手前の点から次の点に進んだときに追いつける。

これですっきりした…、が、空間や時間がディジタル的な「飛び飛びの点」というのはどういうこと…?
 
> 2020年 10月1日  目標と結果を混同するアホな経営者たち
コンビニのファミマが、決算の会見で「もう数だけを追い求めない。これからは質への転換を進める」とのこと。
日経新聞サイト2020/9/21
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64105300R20C20A9PE8000/?n_cid=NMAIL007_20200922_A

おいおい、今頃、何言ってんの? 昭和、平成の時代に、例えばドラッグのマツキヨなどが店舗数を目標にして壁にぶち当たった歴史もあるのに、この人たちは経営の勉強もしてないのか?
店舗数や売上という数字は、事業内容や社員数、さらには市場規模や流行の「結果」であって、「目標」ではない。目標とは事業内容開発、営業手法開拓を包含したビジョンのこと。
それなのに、いまだに結果と目標を混同し、勘違いしている。そのしわ寄せは全て営業が背負い、社員の神経衰弱、思い詰めての不正経理、退職、…。
人類の知能低下(というより知能格差)は、ついには政治家や経営者などのリーダー層まで浸透し、歯止めが掛からない。
 
> 2020年 8月31日  コロナが収束しない
「コロナ…が収束しない」という報道。そりゃそうだろう。人間は逃げ回り、ウィルスは追いかける。撲滅は無理だから、収束させたければ、さっさと全員感染して集団免疫(バリア)を作るしか無い。最初は犠牲者が多いかもしれないが、長い目で見たら少ないはず。
接触感染なら、感染確率は、まず感染者に遭遇する確率で決まる。もし遭遇したり、感染者の触った物に、直後に触れたりすれば間違いなく感染するだろう。マスクなんか関係無い。
その次に、発症する確率。それまでの生活習慣や蓄えた免疫力で決まるだろう。
そして重症化する確率。最近の研究では、アンジオテンシン変換酵素がコロナの受容体らしいから、その遺伝子の関係も。こうなると宿命としか言いようがない。

マスクだけではなく、「○○は効かない」という証明は非常に難しい。数式で表されるならともかく、ありとあらゆる条件、現象について証明しないといけない。
一方「効果がある」という証明は簡単だ。一つでも効果のある現象が見つかれば良い。じゃあ、マスクは?
無い!要するに「防いでくれそうな感じがする」から、藁をも掴む思いでマスクする。

世界中で数億人がマスクしている。となると。。。エアコンの掃除をしたことのある人ならすぐ分かる。。。フィルター。コロナのおかげで、世界中の空気が綺麗になる。いいねえ。
 
> 2020年 7月 30日  商品開発の極意−風姿花伝
風姿花伝は言わずと知れた能の大家、世阿弥の作。彼にとって創作と演能は「商品」。風姿花伝は商品開発の極意を記したもの。

まず、「第一、年来稽古条々(ねんらいのけいこのでうでう)」は基本的心構え。
〇生活を律し、ひたすら能(=商品開発)に励む。
〇少し誉められても(=商品がヒットしても)それは一時的なものだから勘違いするな。初心に返って身の程をわきまえよ。

「第二、物学条々(ものまねのでうでう)」は、商品開発の具体的トレーニング法。
〇稽古は本物を手本とし、その物まねを重んじ極めよ。

「第三、問答条々(もんだふのでうでう)」では、実践的戦術。
〇他流試合(=他社との競争)で、もし相手が華やかな能なら、こちらは落ち着いた別の型の能で勝負し、引き締まった芸を見せよ。

さらに「第五、奥義云(あうぎにいわく)」に進むと、能(=商品)の極意について
〇深く会得した演能者(=商品開発者)は、能をよく知る者(玄人)を存分に楽しませると同時に、全くの素人にも面白いと思わせるもの。

確かに素人も玄人もそれなりに楽しめる商品は理想。一体どうやってそれを実現できるのか。世阿弥は別の場所(「花伝第七、別紙口伝」)で、その実践例を述べる。
〇一つの所に留まらず、ありとあらゆる芸を尽くし、人々の希望、時流に沿って次々と演じてみせよ。 これは上記の他流試合の戦術にも通じ、
・常に変化に富んだ商品作りで消費者を飽きさせない工夫に対する意識、執念、
・広く捉えれば、失敗作ですら次の成功の布石としての意味(意義)があること(もちろん粗製濫造は論外)
を思わせる。

世阿弥は、人間の脳が物事を感情的に評価するときの相対性、つまり脳の快感が少し前にどんな状態だったかによって今の快感が決まるという特徴に気付いている。前が静かで快適な曲や演目であったら次には躍動的なものが心地よい。

すべての顧客をその人なりに楽しませるもう一つの解決策が能全体に見られる。それは
〇決して感情を前に出さず、顧客に押しつけない。
能ではどんな怒りの場面も悲しみの場面も淡々と事が運ぶ。能面はほとんど無表情で、直面(ひためん)(面を着けない素顔)でも決して顔を繕わない。もし悲しみの場面で、西洋の舞台劇のようにこれでもかと感情を満面に表して訴える芝居をすると、それに共感する観客には受けるが、異なる習慣の観客にはしつこく、あるいは奇異に見える。
仮にその派手な感情投射(=それほどでもない商品機能を大げさに演じるテレビ宣伝)が功を奏して話題になっても、すぐに飽きられる。演能でも商品でもそれの持つ物語を淡々と語り、相手に押しつけないことで、それぞれの顧客の人生経験に応じた自然な感情を喚起させられる。

要するに感動を与えるのでなく、各人の心に埋もれているそれぞれの感動経験を引き出す。そのためにも、商品に付随する物語は必須。市場にある多くの商品はそれができていないから、奇抜な宣伝に頼り、流行が去れば廃れる。

風姿花伝では他にも、
〇やせ我慢せず、優れたものは素直に認め、早く自分に取り込め。
〇世俗的な功利主義に捕らわれていると芸(=商品)は廃れる。

商品開発に携わる人は、人を喜ばせる知恵を磨くためにも一読するとよい。
 
> 2020年 7月15日  シンデレラ物語の謎
図書館で「シンデレラの謎」(浜本隆志、河出書房、2017年)という本を見つけた。数十年来の疑問があり、すぐに借りた。
…が、がっかり。 世界中に類似の伝承が残っていることを延々と述べているだけで、題目の「謎」も謎解きもよく分からん。どう見ても学者先生の暇つぶし。確かにこれだけの文献(巷の伝説)を集めるのは大変なご苦労だろうが、「だから、何なの?何万年も掛けて人類は世界中に散らばったのだから、物語も伝承するに決まってるでしょ。しかも、その土地、時代、風俗に合わせて変化するし…」
そもそも、あらゆる「娘いじめ」の物語をシンデレラ物語に結びつけようという発想、…人類の物語力(創造力)を馬鹿にしてない?

私の疑問は単純。子供の頃見たディズニーアニメ、そして最近の実写版映画シンデレラ(2015年)でも、「真夜中の十二時に魔法が解け、カボチャの馬車や豪華な衣装が元の姿に戻るのに、なぜガラスの靴は元に戻らないのか」ってこと。

靴が「ガラス」になったのは17世紀、メルヘン作家のペローが伝承をまとめているとき、「銀リスの毛皮(vair)」を「ガラス(verre)」と書き間違えた、あるいは意図的に変えたという話が有名。ともかく、納得の行く説明が欲しい。

【追記 2024年2月1日】
ペローの原著(仏語)の英訳を読んでいて気付いた。馬車などすべて他の物から魔法で変えて作っているのに、靴だけは違う。靴はボロ靴をガラスの靴に変えたのではなく、魔法で新たに作り出している。だから、「十二時」の呪いを受けないのかも。確かにディズニー映画でも、ボロ靴だけはわざわざ脱がせて、新しいガラスの靴を与えている。ふむふむ。。。
それで、ふと思い出した。欧米では「相手の履き物を預かる」ことは「家庭を持つ(結婚)」を暗示するらしい。確かに、有名な映画「My Fair Lady(1964)」は、最後に「Where are my slippers?」という台詞で終わっているし、多くの古い洋画では「結婚と靴」の場面が出てくる。
だから、シンデレラの靴だけは、ボロ靴を魔法でガラスに変えるわけにはいかず、物語がヨーロッパの慣習に矛盾しないように作られている。
 
> 2020年 6月6日  考えない思考回路 − なぜマスクをするのか誰も答えられない…?
出かけようとしたら、近所の知り合いに出会った。
「あれ、お出かけ?…マスクしないの?」
「しないよ。意味ないでしょ。…、あなたはなぜマスクする?」 「だって、ウィルスとか、ばい菌とか…」
「菌とかウィルスを防ぎたいんだったら、医療用の高密フィルターじゃないとねえ。しかも常に使い捨てで、新品を使う。そんな布きれじゃあ無理よ。それに脇はスカスカだし…」
「でも、一応、99%カットって書いてあったけど…」
「つまり1%は通過して吸い込むわけね?1%ぐらいなら安心って、誰が決めたの?確かに人の少ないところでは、例えばウィルスが1000個ぐらいで、その1%、10個ぐらいなら大丈夫ってこと?もし感染者が近くにいてウィルスが1万個あったら、99%でも無理なんじゃないの。ウィルスを馬鹿にしてない?それに、メーカーのデータって、一番いい条件、つまり封を切った最初だけだよ」
「唾の飛沫とか防がないと…」
「飛沫が気になるわけ?だったら、なんで顔全体を隠さないの?特に目は危ないよ。髪の毛にもくっつくし」
「…」
「それに、もし外からの飛沫が危ないんだったら、それをマスクにわざわざ溜め込んで、菌を増殖して、それを四六時中吸い込んで、…、それって『衛生的』なの?」
「自分の唾を相手に飛ばすのは、失礼かなあって…」
「確かにそうだけど、100%止められるわけじゃないから、溜め込んだウィルスや菌を、喋るときに一気に噴き出そうってことね?マスクしている人たちが、ぴったりくっついて会話しているのを見ると、危ないというか、滑稽だよね」
「…」
「もし僕が感染者だったら全身ウィルスだらけで、これまたお互いにマスクなんか意味ないけど」

結局、誰も、未だに私の疑問に答えてくれないんですね。マスクが悪いと言っているわけじゃない。状況がひとりひとり違うのだから、どんな人がいつするべきか、もっと考えたら、って…。そうすれば、マスクの買い占めとか、詐欺とか、医療関係のマスクが供給不足とか、おかしなことは起こらない。
こういう「自分で考えない『思考回路』」が、差別やいじめ、中傷誹謗、村八分とか集団○○とかを生み出すんだな、きっと。
 
> 2020年 5月 1日  映画の台詞
We are what they(apprentices) grow beyond. That is the true burden of all masters. [Star Wars - Episode 8]
Jedi Master Yodaの台詞。これが分かっていないリーダーとか先生、師匠、チーフ○○、カリスマ○○、トップ○○、なんてのが多い。自分より出来そうな(自分を追い越しそうな)若手の芽を摘むやつ。
《意訳》我々は彼ら(徒弟)たちに乗り越えられるべきものだ。それ(乗り越えられてしまうこと)がすべてのmasterたちの責務なのだ。

The distance between insanity and genius is measured only by success. [007 - Tomorrow Never Dies]
そう、よく、キチガイと天才は紙一重って言う。裏を返せば、もし失敗したらキチガイ扱いされるくらいの仕事でないと、成功に値しない?
《超意訳》狂気と天才の違いは成功したかどうかだけだ。

Man can learn nothing from winning. The act of losing, however, can elicit great wisdom. [A Good Year]
自分は成功したためしがないから、分からん。でも確かに、こう負けてばかりいると、考えざるを得ないから、それなりに知恵は付く。… 勝ったやつは、成功の過程を自分の都合の良いように解釈して酔いしれるから、思考が浅くて知恵が残らないのかも。
《意訳》勝利からは何も学べない。でも、敗北からは素晴らしい知恵を引き出すことができる。
 
> 2020年 3月 1日  ロボットは人間を目指し、人間はロボットを目指す
「ロボット、AIに感情はできるか」とか「感情表現するロボット」とか、浅はかな話題がメディアに取り上げられる一方で、スポーツ競技、特に体操競技とかフィギュアスケート、産業技術検定や技能オリンピックを見ると、「人間はロボットになると拍手喝采されるんだ」と溜息が出る。人の生き方は難しいもんだ。
そのうちロボットも、自分の生き方に悩むのかな…。
 
> 2020年 2月 1日  タイムトラベル?
未だに飽きもせずに、タイムマシンやタイムトラベルの小説や映画が作られるけれど、当然ながらシナリオに無理が。。。それを隠すために、色々な仕掛けというか規則を盛り込むわけだけれど、そもそも理論的に時間移動は正しいのか?
だってね、もしタイムトラベルが開発されたら、「おい、みんなで50年前に戻って同窓会やろう」なんて言い出すだろう。それで旅行ブームになったら、数億人が現在の地球から忽然と姿を消して、50年前の地球に突如、何億人もの人間が出現するんだよ。そこには「自分」が二人いて、…。それから食糧危機になって、…。エントロピーの理論、どうなってるの、なんて言っている場合じゃあないだろう。

そもそも、アインシュタイン以降の理論では、時間と空間は同一に扱う。この3次元の空間が時間軸に沿って移動するイメージかな。
つまり、例えば、空間のB地点にいた人が別のA地点へ移動したら、もはやB地点には誰もいない。
それと同じで、ある時間のA時から過去のB時へ移動しても、もうB時には誰もいないだろうよ。すべてがA時に移動してしまったわけだから。そう、仮にタイムマシンが完成して、過去に戻ったとしても、そこには無の空間があるだけ。あるいは「空間」すら無いかも。
たとえ石ころでも、分子レベル、原子レベルでは時間と共に変化しているから、過去のB時には、本当に何も無いはず。それが「時空間」の概念。。。と思うんだけどなあ。
矛盾の無いシナリオのタイムトラベル映画を誰か作ってくれないか。。。
 
> 2020年 1月 1日  小学校でプログラミング?
テレビニュースで学習(教室)風景を映し出していたけれど、どうみても職業訓練学校だねえ。昔からの人間としての(日本人としての)基本、「読み書き算盤」はどうなってるの?スマホやゲームに忙しくて人生をダメにするよりは、プログラミングなら、まだ、ましってことか?

大晦日のテレビ番組で、天龍寺の庭師の頭領が言っていた。
「技術はいらない。必要なのは精神と心だ。」
そう、どんな仕事でも、その分野で働く限り、技術やノウハウは否応なしに頭に入り、経験は蓄積される。けれども精神や心は自ら自覚し勉強しないと絶対に芽生えない。精神や心が育っていない人間は、文章を読んでも真意を読み取れないし、他者への配慮も難しい。それに、結局、技術の向上すら壁にぶち当たってしまう。挙げ句の果てには、短絡的に投げ出し、生活設計の無い転職を繰り返す。

子供の頃は、喜んで入って行けるゲームやパソコンいじりではなくて、苦痛?な「読み書き算盤」が大切。人類進化の脳の原点だからね。特に読書を、強制されてでも一定期間やらないといけない。そうしないと「忍耐」とか苦痛を回避する(脳内快楽を上手にコントロールする)知恵の経験が無いまま、大人になってしまう。その典型が、かつて当時の愚かな学者や政治家たちが考え出した「ゆとり教育」だ。
Copyright © 2022 ルーセット・ストラテジー株式会社 All rights reserved.